第八章「さらなる始まり」

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1983年7月、長年苦楽を共にした愛妻ドロシーの死は、ラルフに大きな打撃を与えた。 ラルフはどこへ行くにも彼女を伴い、二人は常に一緒であった。肺がんで療養を続けていた彼女の死は突然ではなかったものの、ラルフの悲嘆と落胆は深く、暫らくは孫たちが交代で泊まりに行き、ベックも度々食事を共にして慰め彼の気を紛らわすよう努めた。 妻・家族だけでなく、ラルフはこの後も多くの友人たちに先立たれることとなった。 アルコアのフリッツ・クローズを1986年に、プルタブ開発者アーマル・フレーズを1989年に、生涯の友ルーベンを1993年に亡くし、共に何かを始めた人々が、彼より先に逝ってしまうことは通例のようであった。

家族、友人たちに支えられ本来の元気を徐々に取り戻したラルフは、ほどなく年配のポーリーンと再婚した。しかし、1990年、彼女もまた病で失うこととなった。80歳代になっていたラルフであったが、社交生活を含むその事業家としての活動は留まることを知らなかった。ベックと共に軌道に乗せたスターリ・ミルク・ バイオロジックス・インスティチュート(SMBI)の免疫ミルク生産拠点ニュージーランドやその消費国アジアへの頻繁な旅、自宅でのパーティや来客が絶えない生活は、高齢のポーリーンには心身共に大きな負担であったろうとルイス・ヘンクルは振り返る。

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そんな事情からも、86歳になっていたラルフが1991年3度目の結婚に選んだ妻キャサリーンは47歳、エネルギッシュな彼と歩調を合わせるには充分若く魅力的な郡裁判官であった。元来、保守的だったラルフは、高齢の男と年齢差の大きい女性との結婚には常に眉をひそめていたが、この時ばかりは例外となった。

SMBI は勿論のこと、現在も1501 Michigan Avenueに本社を置くSC、彼の死後名称を”ラルフ J. スターリ カントリーサイド YMCA”と改名された世界最大級のYMCA等々、ラルフ・スターリの数々の偉業と功績を語り偲ばせるものは多い。しかし基本的には、彼は”キャデラック”などの高級車には乗らず、所謂「ステイタス・シンボル」を嫌う地味好みの人柄であった。自らに関して多くを語らず、常に沈着冷静、クールな物腰は晩年も人を魅了した。奇しくも誕生日が同じ、ベンジャミン・フランクリンに似て、発明家・企業家であり、見事な説得力を備えるセールスマンであり、その旺盛な好奇心は終世衰えることはなかった。成功後の生涯を通して、教育機関、教会、小児病院、地域社会、そして必要とする個人にも多額の寄付を進んで行い、その莫大な資産を人々のために非常に有効に賢明に使った。

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あるインタビュー時に、成功の鍵を訊かれた彼は「イノベーション(革新)を常に考えています。私一人で始めた会社は売った時点では3-4,000人の大企業となりましたが、その基となったのは、イノベーションの発想です。発想を実行に移したことから築いたものです。」と語っている。

90歳になってもラルフは、キャサリーンを伴いSMBI事業の更なる発展のため、台湾、香港、北京等への出張を続けた。キャサリーンは、当時の旅について、「あの地域では変わったものを出されるので、一体何を食べているのかわからない時があるのですが、ラルフは気にせず何でもいただいていました。」と笑う。

一方、家族、親族への気遣いも決して忘れず、月に1回1週間ほどはキャサリーンとフロリダでの休暇を楽しみ、独立記念日の7月4日には必ず親族一同だけのパーティを開き、機会ある毎に、孫やひ孫たちと遊ぶ時間を捻出した。