第七章「ミルク&マネーランド」

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1972年、オハイオ州立大学(OSU)で博士学位取得後の研究を始めていたリー・ベック博士は、OSUの産婦人科学会長ヴァーン・スティーブンス からラルフを紹介される。27歳の若輩ベックと68歳の大富豪ラルフに共通の関心事は、免疫研究であった。

当時ベックは、ヒトの受精卵の子宮着床を一時的に阻止するようなワクチンの開発を思索中であった。開発途上国に住む婦人たちの、望まない子供を一生のうちに15人ほども産まねばならないような悲惨な現実の改善に、そのワクチンが役立つのではないかと考えていたからである。

OSUでは多数のヒヒが研究用として飼育されていたが、実験には多量の抗体が必要であった。一方、ラルフは最高級の乳牛種ホルスタインをオハイオ州でもっとも多く所有する農場主でもあった。元々、牛乳には抗体が含まれ、それを人為的に操作することにより牛乳をさらに健康的な飲料にできると報じたW. E. ピーターソン博士の説を1958年に読んだラルフは、リウマチ、癌、その他の疾病に対する免疫を高めるミルクの開発を模索中であった。

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年齢や社会的地位の差を感じさせず、少しも飾らない自力大成のこの富豪にすっかり魅了されたベックとラルフとの生涯に亘る親密な関係の始まりであった。ベックは語る「ラルフのような人に会ったのは初めてでした。何というか、くつろげる気分にさせてくれると同時に、自分が彼にとってとても大切なのだ、と感じさせてくれるんですよ」。ベックはラルフに科学的助言を与え、ラルフは牛へ免疫抗体を接種し、その乳汁をOSUで飼われているヒヒ集団のヒヒに与えて実験を続けることとなった。一方、ベックにラルフを紹介したスティーブンスは、WHO(世界保健機構)と共同で、不妊ワクチンの開発に着手、1978年遂に目的を果たすこととなった。

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その後、アラバマ大学(UOA)に研究職を得たベックは、ラルフに免疫抗体開発に関するアドバイスを続け、ラルフはUOAのヒヒ集団への出資を喜んで引き受けた。しかし、学術的裏づけとパテントがないラルフの免疫ミルクは、それ以上進展しないことをベックはラルフに指摘、両者は協力してまず虫歯抗体をもった免疫ミルクを開発、特許も取得したが事業化には至らなかった。ほどなく、ベックはラルフの要請でUOAよりラルフの研究農場へ移ることとなった。

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一方、SCの事業は、1970年代初め、未だラルフ自身の総指揮下にあった。しかし、70歳になった1974年、彼は遂に引退を決意、その持株を全て、1930年代より密接な提携関係になったアルコアに売却した。SCの従業員にとっては、残念な転期となった。ラルフの下では、定年はなく働きたいだけ働け、父親が子供を護るように終始保護されていた社員たちであったが、70歳代の経営者の引退はいたしかたないことであった。「ラルフはどんな時も怒りやショックの表情を社員に見せることは決してなく、常に冷静なトップでした。」との、ラルフの下で18年間勤めたジョージ・ヘンクルの言葉は、ラルフが社員に敬愛されていた理由の一つを物語っている。

アノダイズアルミの誕生、自動車から冷蔵庫、フォークリフトに至るまで多くの製品の改良、そしてビール・ソーダ飲料業界に革命を起こしたラルフの次なる目的は、別の飲料、すなわちミルクに全面的に打ち込むことであった。免疫ミルクで人々が病と闘うことができる、中でも癌に対する有効性の学問的検証研究をベックと共に進めることにしたのである。「免疫ミルクを事業化させ、私の死後も続けて欲しい。」とラルフはベックにその決意と抱負を語る。

数々の分野で成功を収めたラルフも、その広大な農場、サン・マール・ゲイル ファームからは、1941年から63年までの間、何の収益も上げていなかった。1963年、IRS(国税庁)は、農場に対し、来る5年間のうち少なくともいずれか1年に収益が出ない場合は「この農場は事業でなく単なる趣味である。」と宣せざるを得ず、それまでの損失分を、RJSCが担う義務があると告げてきたのである。通告された最後の年1968年、”Capsule”と名づけた見事な雄牛の飼育に成功、繁殖牛として、ミルクとベビー用品大手メーカーのカーネーション ファームズに、当時としては破格の高値$250,000で売却、窮状を辛うじて凌ぐことができた。

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このような事情の下、ラルフは免疫ミルクの事業化に真剣に取り組むこととなった。ラルフは、開発した免疫粉ミルクを、薬剤として紹介することを望んだが、FDA(食品医薬品局)関与による事業迷路を熟知していたベックは健康補助食品としての開発を推奨、ラルフは同意した。ラルフは、免疫ミルク粉末を希望する人には全て無料で与え、その代わり、常飲した後、毎月体調の変化を報告するよう依頼した。 経済的にはすでに充分恵まれていたラルフを免疫ミルク事業にそれほどまでにうちこませたものは、金銭欲ではなかった。兼ねてより彼は医療の世界に少なからぬ疑念を抱いていたのである。「彼は医者を高く評価していませんでした。医者が施すものより優れた何かを考え出すことをしたかったのです」とベックは言う。若い頃患った結核が重症化するのを防げなかった医療、妻ドロシーの2人の兄弟を奪った病に何のヘルプにもならなかった医者たちに失望したラルフの苦い経験に起因するところであろう。ラルフは医療に対しても、彼の事業に対する基本姿勢と同じ方針を求めた。すなわち、「問題があるならそれをすぐ正す」ということである。

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当時、免疫ミルクの他にラフルが深く関わったプロジェクトは、地域社会に大きく貢献する新たなYMCA施設の建設であった。放課後家へ帰らず、巷をうろつき犯罪などに引き込まれ易い思春期の少年が仲間や家族と過ごせる健全な場所を提供しようという福祉の精神から発した構想であったが、ラルフの年齢と資産に見合う一大プロジェクトとなった。月面着陸で一躍有名になったオハイオ在住の宇宙飛行士、ニール・アームストロングを初め州知事や名士、地域リーダーズと共に構築の年月を重ねた。オハイオ州に所有していた土地は日本のホンダに売却、現在も同社の工場地となっている。そして8年後の1978年9月、126エーカー(1200坪x 126)の敷地に82,000平方フィートのビル、オリンピックサイズのプール、ヨットやカヌーを楽しめる池等を備え、一時に3,000人が入場できる世界最大級の”カントリーサイド YMCA”のオープンが実現した。

799回の失敗後、遂に電球の発明に成功したエディソンと同様、ラルフの哲学の一つ「決して何事も途中で諦めない」結果であった。この年74歳になっていたラルフは、新会社ハイドロエレクトリック・リフト・トラックス 社を設立、地元のウィルミントン 大学の理事に就任、ベックの研究施設をスターリ・リサーチ・アンド・ディベロップメントとして法人化するなど、その後も旺盛な事業活動は止まることを知らなかった。「あれでは働きすぎで死んでしまう」と心配していた弟のハワードであったが、そんな彼の方が先に逝くこととなった。