第五章「缶の陰の男」

cap5_1

1959年、妻子親族とピクニックを楽しんでいた機械工アーマル・フレーズは用意した冷たいピールを開けようとして、ハタと気が付いた。缶切りを忘れてきたのである。仕方なく誰もがするように、クルマの後部バンパーの尖った箇所で開けたが、泡が飛び散り厄介極まりなかった。その夜、あんなときのために何か方法があるのではないか、と発明好きな彼は考えていた。

いっぽう、靴の製造機械メーカー、ユナイテッド・シュー・マシンネリー・コーポレーション(USMC)は、本職の履物関連製造機器だけでなく、月着陸船の駆動機構を初めさまざまの機器・装置の開発にも関わっていた。中でも、飲食用容器のひきあげて開ける蓋のつまみ部分の開発ではパテントを獲っていた。しかし、そのタブ(つまみ)部分を蓋に取り付ける確実な技術開発を必要とし、アルコア社に相談をもちかけた。ビール缶の蓋の工夫を夜中に考えていたアーマル・フレーズは、デイトン・リライアブル・ツール・カンパニー(DRTC)を設立、アルコア社の技術者ジョン・フローバスより缶のプルタブの件を聞くこととなった。そして、取り付け部分の新技術を開発、特許を取得し、そのパテントはアルコアとUSMCがコントロールすることとなる。

当時のソーダ類やビール缶はブリキ缶であったが、アルコアのマーケティング部長フリッツ・クローズは、何とかアルミに変える手立てを模索していた。つまり、アルミ缶の蓋部分にプルタブを取り付け大量生産できる方法を懸命に探っていたのである。 DRTCでは一日に5,000缶の製造がやっとであった。ある日、クローズはラルフに電話、「できるか?」と打診。ラルフは即座に答えた「できるとも!」。

間もなくクローズは、大手ビール企業シュリッツ社の缶メーカーコンチネンタル・キャン社よりビール缶200,000個の蓋にプルタブ装てんの注文を取り付けた。その受注をラルフに知らせる10月12日付書状には、缶が11月1日にはスターリ社に届けられるとあった。つまり、それまでにスターリでは完璧な生産体制を整えておかねばならない。クローズにとっても、ラルフをキャプテンにして小さなヨットで急流を出航するようなものであった。

今日では簡単に見える技術も、当時は至難の技であった。試行錯誤の結果、缶にプルタブを固定するリベットを適正な型に保つ特殊な潤滑剤が必要であることが判明。そして、アルミ業界で歴史に残る瞬間が訪れた。ある日、ラルフは市場で買い求めたパラフィン・ワックスを鍋で溶かし、滲み出たパラフィン液に缶の端をさっと浸け、急いで工場へ持ち込み機械にかけさせた。それまでの不恰好な仕上がりと違い、そのリベットは完璧な型をなし大成功であった。今日では潤滑剤はエナメル・コーティングと共に事前に施され、この工程は必要なくなっている。

cap5_2

ラルフには、3代に亘って忠実にSCに仕える発明の天才エルトン・カミンスキーがいた。彼はラルフの信頼できる部下だけでなく、その親族の多くもSCで働く家族のような存在であった。カミンスキーがこのプルタブつき缶大量生産の成功に寄与したのは言うまでもない。ラルフは、その仕事にピッタリの人材を集め配置し、チームプロジェクトを組むコツをよく心得ていた。「それぞれ適格な役を委ねられた献身的な社員から成るチームがあれば、どんなこともできるものだ」が彼の信念であった。

1963年、SCは、週7日、24時間稼動の一大企業となり、63年末には、アメリカで消費される缶ビールの40%がプルタブ方式に変わり、68年にはプルタブ付ビール缶のシェアは80%を超えた。続々と増収する莫大な資金で、ラルフはシドニー・マシン・ ツール カンパニーの工場数箇所、ノーコルド ・リフレジレーション カンパニー等を次々買収、1970年半ばには、シドニーで9箇所の工場がフル回転となった。一方、RJSCも拡大を続け、1970年末期には、水圧シリンダーメーカー、重金属打ち抜き加工工場、農機具メーカー等々を所有する一大企業となった。 

この画期的缶の登場で、プルタブ付蓋全体を開けるのはたやすいことになった。しかし、戸外で開けた後捨てられる蓋が見苦しく散乱、足を怪我したりするケースも続出、プルタブ蓋の新デザイン開発の必要性に迫られた。そこで、スターリ・ マシンネリー 事業部は、遂に今日使われている(開けた後も、そのまま蓋についている)プルタブを開発するに至ったのである。事業家として共通する飽くなき探究心を持ったアーマル・フレーズとラルフ・スターリの名は、プルタブ開発者として永遠に歴史に残るであろう。