第四章「ラルフの理想郷」

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ラルフの末娘ゲイルが生まれた日、彼はオハイオ州レバノンに3,500エーカーの農場を買い、3人の娘の名の一部をとって”サン・マール・ゲイル ファーム”と名づけた。農場主になりたいという子供時代からの夢を果たしたのだ。実際に移り住む12年後まで、週末をよく農場で家族と過ごした。農場より牛、馬、うさぎ等を連れ帰り、家周りには常に何らかの動物が暮らしていた。

当時、一般家庭にも現れ始めたテレビに、好きなボクシング番組を除いて彼は殆ど関心を示さなかった。映画にも行かなかった。ジッと座って見ているだけは苦手、常に何か自身がしている、動いていることを好んだ。農場以外で働いていない時は、スターリ社のあるシドニーから家族のいるシンシナティ、そして両親や兄弟たちの住む故郷のフォート・トーマスと常に移動のため運転、何もしていない時間は片時もなかった。そんな彼は、「いったい、いつ寝るんですか?」と訊かれ、「信号でクルマが停まっている時」と答えたが、これは大げさでも冗談でもなかった。後席に同乗した子供たちはよく交差点で「信号が変わったら起こしてくれ」と言われていた。また、ある時は、半マイルに亘る後続のクルマが鳴らすクラクションの音でやっと目覚めると言うこともあった。そんな事情もあって、彼は自家用飛行機を購入した。

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父フランクが1952年に74歳で死去、母はインディアン・レイクで隠遁生活を始め、その順応を見届けると、ラルフは一家を連れて農場のあるレバノンへの移転を決めた。この頃には、長女、次女はそれぞれの大学生活で家を出て、末娘との3人暮らしであった。ラルフは基本的に仕事の話題を家ではせず、職業と家庭生活をはっきり分けるタイプの男であった。農場生活には家族は訳なく順応したが、娘のメアリー・ジョーを驚かせたのは、父が飛行機で通勤し始めたことであった。広大な農場には、小型飛行機と格納庫、そして滑走路が新たに加わっていた。

ラルフは常に身なりに気を配り、紳士らしい服装で滅多にカジュアルな格好をすることはなかった。家族とくつろぐフロリダでの休暇中でさえ、ショートパンツなどは決してはかず、常にパリッとした実業家らしい姿勢を崩さなかった。孫の1人、キャシーは、「彼は、父親役、祖父役、何でもすぐ状況に応じて演じることができましたが、根底は常にビジネスマンであることを忘れていませんでした。」と語っている。

飛行機通勤により機動力と時間のできたラルフは、地域の社交場にも夫婦で積極的に参加するようになり、弁護士、医者、経営者たちとも広く知り合うようになった。ラルフは少人数の仲間内では気楽に会話ができたが、大勢の人を前にして話しをすることは大の苦手のあがり症であった。

しかし、事業が順調に成功を続けるに従い問題も出てきた。ユニオン(労働組合)からの要求が次々とエスカレートしてきたのだ。従業員を大切にする彼は、当時としては異例の企業健康・生命保険、企業年金、有給休暇等の福利厚生策をいち早く導入していたにも拘わらず、1950年代は、ユニオンによって彼の農場と会社生活は脅かされ続けた。1956年、当時アメリカの政治思想を大きく支配していたマッカーシズム(反共産主義思想、所謂「赤狩り」)運動と激しく対立していた炭鉱労働組合ユニオンは、仕事上何の関係もないSCの従業員たちを煽動し、スターリ社には暴動が勃発、関連事件が相次ぐこととなった。57年には徐々にユニオンの騒ぎは収まったが、強いストレスフルな状況が続いたこの苦い経験から、ラルフはスターリ事業に関して一大決断をした。SCの持ち株の中49%をアルコアに売却、SCは維持する一方、ラルフJ・スターリ・カンパニー(RJSC)を創設、CEO(最高経営責任者)に就任した。

RJSCは複数の子会社を有する企業であったが、どの子会社も決して200人以上の従業員をおかなかった。200人を上回る従業員数の会社は通常ユニオン結成になりがちなこと、また、企業は小規模のほうが効率的で官僚性が薄いと考えたからである。彼は社員・工員の雇用の際、その実務上の経験より、過去にユニオンを持つ企業で働いていたか否かを重視し、ユニオン関連企業経験者を徹底的に排除した。

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この後、ラルフの会社の社員は引退まで在籍し、また一旦辞めた者も再び戻ってくることが多かった。従業員を家族とみなしていた彼の企業理念は、「社員との絶えざるコミュニケーションと誠実で信頼しあえる関係」に基づいていた。いかなる職位の従業員にも「自分がここで真に必要とされている社員である」という気持ちを起こさせた。すでに著名な実業家で富豪であったにも拘わらず、全ての社員に”Just call me Ralph.”(「ラルフと呼んでくれ」)と頼み、”Mr. Stolle”とは呼ばせなかった。

1950年代も終わりに近づき、実業家として大成功を収めていたラルフは、少年時代から大好きであった牛、中でもホルスタイン種に益々傾注していた。大学教授のマリック・サーワー博士を酪農場へ迎え入れ、乳汁に関する研究活動を開始した。そして、ミネソタのW. E. ピーターソン博士が、牛にヒト抗体を作らせることが可能であるとの説を打ち出すと、すぐにその研究にも着手した。

青年時代から勤勉を惜しまず尽力をつくし目標を達成したラルフは、事業家として充分報われ、後は悠々自適の高・晩年を送るであろうとこの時点では自他共に予想していた。更なる画期的成功が1962年に彼を待ちうけていようとは誰一人想像もしていなかったのである。