第三章「世界大恐慌」

1929年10月29日の株価大暴落と共に始まった世界大恐慌は、たちまち人々を悲惨極まる生活に陥れ、シンシナティだけでも同年に3,721家族が食べる糧と住む家を失い、翌年には6,000家族に増え、さらに2年後には23,188家族が失職、橋の下で暮らすような生活を強いられた。

ラルフのめっき事業も悪化の一途を辿り、ローンが払えなくなった家を貸家とし、妻と2人叔母夫妻の家に移り住むことになった。1930年、事業の夢を全て失くした彼は、汽車の長旅でニューヨークのニューポート・ナショナル銀行を訪れた。そこで彼は賭けに出た。「従業員に給料が払えない。できることは全てやった。ローンの延長をしてくれるか、あるいは、鍵を渡すので私の事業を引き継いで自分たちでやって欲しい。」と会社と工場の鍵一式を銀行家に渡した。27歳のラルフは、従業員たちが暴動を起こす前に、銀行が怒り出すのを待たず先手を打ったのだ。電気めっき事業の運営などわからない銀行は、ローンの延長に同意、ラルフは以前にも増して業績挽回に全精力を投入した。

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その前より、軽量金属を錆付かずしなやかで壊れにくく、見た目にも美しい仕上げにするアノダイズアルミ(陽極酸化アルミ)処理法に取り組んでいたラルフは、運気が向いてきたこの後、遂にその開発に成功した。さらに転機は1930年、会社が倒産しかけた直後に訪れた。アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ (“Alcoa”「アルコア」と略称されていた)のセールスマン、ローウェル・グレイと知り合ったのだ。当時、アルコアのような業界大手でも、アルミニウムの利用法を模索中であった。ラルフの開発になる当初のヒット商品の一つは、フリッジデア社(大手冷蔵庫メーカー)の冷凍室庫内製氷皿を納めるドア部分であった。当時一般的であったスズめっき処理のクローム鋼ドアに、ラルフはアノダイズアルミを用いることを考案、ドア製造費が半額で済むこの処方にフリッジデア社は飛びつき、その後冷凍庫が一般化した後も同社はこのドアを利用し、長年に亘ってラルフの顧客となった。

ラルフの着眼に感嘆したグレイは、彼をアルコア ニューヨークのセールスマン、フリッツ・クローズに引き合わせた。二人は意気投合し、ラルフはクローズに言った。「私にして欲しいことを何でも言ってください。必ずやり遂げて見せます。」

1931年、ニューヨークではエンパイア・ステートビルの建築が始まろうとしていた。スチール60,000トン、2,000立方フィート(約56立方メーター)のインデアナライム石と御影石、ブリック1,000万個、730トンのアルミとステンレススチールを用いた当時の最高層ビルは、週末も休日もない突貫工事で着工後僅か1年と45日で完成した。その大成功に続き、ラルフの会社は1931年から39年までにロックフェラー・センタービル郡の建設にも参入した。アルコア社の要請に応えるため、ラルフと従業員たちは、30フィート(約9メーター)という世界で最大のアノダイジング・タンク(陽極酸化処理タンク)を作った。「ラフルほど創造力に富み、力学的な詳細に長け、その必要機器を熟知している人と仕事を共にしたことはありません。」とクローズは回顧している。

ラルフと妻ドロシーに結婚8年後の1935年9月に長女サンドラ・ジェーンが生まれ、2年後ゲイル・ジャドキンズ、そして1941年にはメアリー・ジョー・クロッパーと3人の娘が家族に加わった。

ラルフほど事業欲のなかった父のフランクは、1933年に会社を去り、弟のハワードも辞め、親族は徐々にSCを離れて行き、会社はラルフの方針通りに動き易くなっていた1934年、拠点をオハイオ州シドニーに移転し、大手洗濯機メーカー、プリマ・ウォッシング・マシン社のロバート・ジェームス・アンダーソン社長に会う機会を得た。1927年、アンダーソンは、作動中の洗濯機内に人の手が入ると自動的に作動が止まる内蔵装置「圧挫止めリンガー」を発明、そのパテントを一大洗濯機メーカー、メイタッグに当時で最高の$177,000で売却していた。アンダーソンは、ラルフにプリマ社洗濯機の撹拌機とリング部分に使うアノダイズアルミの製造を発注することに決め、両社は正式に契約に調印した。エンパイア・ステートビルやロックフェラー・センターの請負は胸躍るプロジェクトではあったものの、あくまでも一時的な仕事であったが、プリマ社との提携はSCに安定性をもたらした。

しかしながら、1935年、プリマ社は突然倒産。同社との契約により他社の取引が制限されていたSCとしては、一大収入源を失うこととなり、窮地に立たされた。そんなある日、シンシナティに戻る列車内で、フリッジデア社の販売代理業者と隣り合わせた偶然から、同社の仕事を取り付けた。フリッジデア冷蔵庫に使われているニッケル・クロームを試行錯誤の末、鮮やかなアルミに変えることに成功したのだ。時を同じくして、倒産したプリマ社も新会社に買収され、そこからの仕事も再び廻ってくるようになった。

しかしこの経緯からラルフは、収入源として1-2社だけに依存する危険性を実感し、方針を転換した。また、クルマや家電品に使われる部品は、1-2年で新製品に変えられることが多いため、常に新顧客開拓を続ける必要があった。1939年、プリマ社は火事で全焼するも、近隣のスターリ工場は難を逃れた。

一大恐慌の時代は終わり軌道に乗ったSCは、シドニーでは優良大企業の一社に数えられるまでに成長した。当時、検査官としてラルフの下で働き、1942年に育児のため退職、58年に秘書として復職し83年の引退までスターリで勤め上げたマクシーン・ペンスは、「ラルフは社員をとても大切にしました。社員の家族が病気であれば、すぐ休みをとらせ、社員にとって家族が最優先であることを分かっていました。また、以前に世話になったり恩義のある人のことは特にいつまでも忘れず、機会ある毎に、その返礼をする人でした。」と尊敬の念をこめて回想している。