第二章「待ち受ける不運」

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1922年、18歳のラルフは、自己資金$50、仲の良かった祖母より$200を調達、タンクとバッテリーを用意し小さな電気めっき作業場を自宅の車庫で始めた。ニッケル、亜鉛、銅、真ちゅうなどを上塗りする電気めっき加工は1850年代から着実に伸び続けていたが、それ自体は華やかさとは無縁の目立たないビジネスであった。しかし、その技術の最終製品である街燈、笛、水道の蛇口等々は皆、人々の日常生活には不可欠のものであった。そして以後、これが彼の事業指標となる。すなわち、人に知られていない加工で誰もが知る最終製品を創り上げる手法の開発である。

近隣地域の企業を廻り、めっきを請け負わせてくれるよう説得を続け発注をとり、ラルフは弱冠19歳で仕事を軌道に乗せることに成功、事業に失敗して困っていた父親を雇いいれ、シンシナティの中心街に最初の工場スターリ・スチール・アンド・アイアン・カンパニー(STIC)を開設した。

仕事が増えるに伴い、毎日はひたすら時間との闘いとなり、UOCでの定時受講は断念せざるを得なかったラルフは、それでもOMI(後にシンシナティ大学と併合)での2年コースを4年かけて終了、1925年遂に卒業に漕ぎ着けた。

その後、弟や従兄弟など親族が会社に加わる一方、父親が息子を雇っているとの仮想を信じきっている母親の介入もあり事業環境は複雑化してくる。基本的家族関係に支障をきたさず、しかもややこしくなった経営から抜け出るには、独りで始めたその会社を自分が辞めるに如かず、と去る決意をする。

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以前からの、そして生涯の友人、ルーベン・アッシェンバックと共に、オハイオ州デイトンの会社ザ・デイトン・プレーティング・アンド・マニュファクチァリング・カンパニーを買収、デイトン・プレィティング・カンパニーと改名し、ラルフが社長、ルーベンはその秘書となる。21歳で$5,000の融資を受けられるような確固たる事業家となったラルフは、地域でただ一人クロームめっきの販売許可を有していた。事業は順調に成長を続けた。

いっぽう、ラルフが去り、経営が思わしくなくなる反面、息子の新事業での成功を観た母親は、「事業を取り仕切っていたのは実際には夫ではなくラルフだった」事実を初めて認識し、ラルフに会社に戻り再興してくれるよう懇願する。

ちょうどその頃、ラルフと新会社を始めたルーベンは、ラルフの昼夜を問わない猛烈な仕事のペースに合わせるべく会社に泊り込み家族を顧みない日も多くなった。怒った妻は辞めるようルーベンに迫り、彼も墜に同意してオハイオ州シドニーの木工メーカーに雇われ引っ越してゆくこととなる。妻の意見によりルーベンの職業生活が大きく影響されたことを身近に観て、ラルフは、妻は夫の仕事に関わるべきではないという従来からの信念を一層固くしたのであった。しかし、その後もラルフとルーベンとの個人的友人関係はその家族共々生涯に亘って続いた。

この頃、彼は近隣に住む20歳の未来の妻、ドロシー・ジェーン・ジャドキンズに会う。若く魅力的で一見世間知らずに見えるドロシーであったが、実は若年で兄弟を相次いで結核で、また父を列車事故で亡くし、洋裁師として苦しい一家を支える母親との二人暮らしであった。たった一人の家族である娘を奪われることを快く思わなかったからか、ドロシーの母親はなぜかラルフを嫌い、ラルフの彼女に対する経済的援助などの努力にも拘わらず、二人の仲は終生しっくり行かなかった。誰にでも好感をもたれたラルフには珍しいことであった。

1927年10月ラルフとドロシーは結婚、新婚当初よりラッキーさも重なり、フォート・トーマスに結構な一軒家を持つことができた。

1928年1月、ラルフは父のフランクと弟のハワードと共に、スターリ・コーポレーション(SC)を設立、マクミッケン通りに生産工場を移転したが、事業内容は従来とあまり変わらなかった。

1920年代としては典型的とも言える幸せな新婚生活の出だしであったが、長くは続かなかった。ラルフが当時流行っていた結核に罹り、1928年から29年にかけて約1年間病床に臥せることになったのである。世界中で7人に1人は結核に侵された時代であった。フランクとハワードが会社運営に当り、ラルフはベッドより帳簿管理をする日が続いた。しかし、ラルフより病状の進んだものは、SCであった。当時、そこに働くスターリ家族の年俸は1人$3,600、その他の従業員に総額年$20,000の給料を支払い、工場の主要光熱費である石炭の仕入れに$2,277、アルミや他の資材購入に$14,411、会社設立費用$150、広告費$754、借入金$955で、1928年の所得控除後の純利益は僅か$199であった。1929年には$3,723と改善したかに見えるが、実はラルフ、ハワード, フランクの3人は計$16,479の報酬を全く取らなかった結果であった。

そして、さらに悪いことには、1929年10月29日に世界大恐慌が始まったのである。

経営のさらなる悪化を止めるべく、ラルフは病身を起こして午前中は工場へ出向き顧客獲得に走り、決裁をするなど精力を使い果たし、午後は家でベッドに倒れこむという生活を送った。ストレプトマイシンや抗生物質もなかった当時、結核患者はひたすら寝ているしか療法がなかったのである。

天井を見ながらただ横たわっていたこの辛い期間、ラルフは密かに神とある約束をした。「もし再び命を与えられ生き延びることができるたなら、病床に臥せっている人たちの助けになるようなことをします!」と神に誓ったのだ。そして、その約束を彼は守った。